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夏の始めに 1









「暑い・・・」
窓を開け放っている室内に、この男には珍しい、地鳴りのような低い声が響いた。
テーブルに向かっている坂本は、手のひらで額の汗を拭った。
そのまま目を覆ってしばらく止まる。
右手にはシャープペン。テーブルの上には参考書とノートが並べられている。
「だからエアコンつけるっつってるだろ」
坂本の後ろにあるベットから、同じく低く、そして不機嫌さを隠しもしない声色で葛西は言った。
こちらは暇を持て余しているのか、ベットに雑誌を広げて横になっている。
坂本は後ろを振り返った。目は少し据わっている。
「電気代もったいないっつってんだろ」
これはこの家で家事一般をこなしている坂本の、とても「らしい」発言だった。
葛西はベットから起き上がり坂本に近づき、横から参考書を取った。
「晩飯食ってからずっと勉強かよ。脳みそ沸騰するんじゃねーのか」
その参考書を坂本が乱暴に奪い返す。
「進学するって決めたんだ。妥協はしたくねーんだよ」
固い意志の坂本に、「不良はさぼってなんぼ」がモットーの葛西はしかめっ面のまま再びベットへ戻っていった。
正道館でナンバーツーの坂本。
それは自分ほどではないにしろ、教師や他の生徒からは立派に立派な「不良」として見られているということだ。
そんな坂本がテーブルにかじりついて進路の為の勉強をしている。
そんなちぐはぐな光景に葛西があまり突っ込まないのは、その原因に自分が関わっているからだった。



まだそんなに暑くもなかった数週間前。
前田に敗北し、そして仲間を信頼すること、仲間から信頼されているということを葛西が自覚した時。
坂本の心から葛西の孤独や焦燥に対する心配が無くなった時。
坂本が本気で悩んでいたのが、進路だった。
もう傷跡も残っていない綺麗な顔で、葛西が今横になっているこのベットで、坂本は真剣に悩んでいた。
葛西の横で。
坂本はこういったことはあまり人前では口に出さない。
二人きりになった時に、いつもぽつりと言い出すのだ。
親友となり、その先の関係にもなり数年。
流石に勘付かないほど葛西も鈍い男ではない。
坂本が何かに悩んでいる時、特にここ最近は自分から聞き出すようになっていた。
自分のことで悩ませていたことに唯一、気づいてあげられなかったあの時を繰り返さない為に。
夜、この家で。
学校でも口数少なく悩んでいる様子だった坂本。
今回はとても分かり易くてよかったと思った。
今坂本が手にしているのはコンビニで買った「就職ジャンプ」。
同じ三年の生徒数名も、見始めている雑誌だった。
「進路悩んでんのか」
「就職悩んでるのか」とは聞かなかった。坂本は進学出来る頭を持っているし、進学か就職かで坂本はずっと悩んで
いた。
「まぁな。もう親の面倒にはなりたくないんだけどさ」
坂本の声からは何も伺えない。何を言って欲しいのかも、どう諭して欲しいのかも。
それぐらい、真剣に悩んでいるということだ。
「てめーはどうしたいんだよ」
煙草を吸いながら、葛西は聞いた。
なんだか自分は答えを持っている気がした。
「わかんねぇ」
「なら、進学しろ」
「なんでそうなるんだ?」
葛西は煙草の煙を吐き出した。
「親の世話になりたくねーなら、すぐ就職に決めるだろ。悩んでるっつーことは進学したいって思いがてめーん中に
あるからじゃねーのか?やりたいことやっとけよ。金なら就職してから一気に返しちまえ」
葛西の言葉に、坂本は目を丸くした。
なんだか幼さの残るような驚きの表情で、葛西をまじまじと見た。
「・・・ははっ。まいった。お前の言う通りみたいだ」
坂本は片手で顔を覆った。
「生活費は心配すんな。てめーでバイトもすんだろ」
「するけど・・・高校出てからもお前の親の世話になる気はねーよ」
「俺だってんな気はねーよ」
「葛西?」
「俺はどっかに就職するつもりだからな。てめーのバイトよりは稼ぎあんだろ。そっから出すっつってんだ」
坂本は、しばらく固まった後、俯いて声を押し殺して笑い始めた。
「なんだよ」
「くく・・・。なんかすごいこと言われたぜ。・・・プロポーズか?」
そこまで言われて、葛西は漸く気づいた。
高校を卒業した後も、坂本がここにいるのが当たり前に思っていたのだ。
だって坂本はここにいる。
自分がどうしようもない人間だった時を経ても、この家に住んでいると言っても過言ではないくらい、ここにいる。
葛西は坂本から視線を外した。
「悪ぃかよ」
「はっはっは。今更照れんなよ。・・・じゃあそうすっかな」
もう坂本の声に悩みの色はなかった。
「進学するか。・・・なぁ」
「なんだよ」
「高校出たら、引っ越して来ていいか?」
笑いを含んだ、それでも少し心配そうな声。
もういい。ここではっきりさせてしまおう。
「好きにしろ」
その言葉に、坂本は葛西の好きな笑顔で、笑った。



それから、坂本はよく勉強するようになった。
前から課題などはよくやっていたのだが、進学の為の勉強は更にここまで熱心にやらないといけないらしい。
夕飯の後はよくテーブルに向かっているようになった。
そして暑くなるにつれ・・・坂本は目に見えて不機嫌になっていった。



葛西はベットの上で見ていた雑誌から目を上げて、乱暴にエアコンのスイッチを入れた。
「おい・・・」
「恨めしい」とはこのことか、坂本がじわりとこちらを睨んでくる。
「うるせえ」
葛西も負けてはいなかった。
進学を勧めたのは他でもないこの自分だ。坂本の心を、決めさせた。
しかし、募る苛々はどうしようも出来ない。



この日、二人はエアコンを巡って口論となり、初めてこの家の別々の部屋で寝ることとなった。






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